10月1日、日本ハムの斎藤佑樹投手(33)が今季限りでの現役引退を表明した。 スポーツジャーナリストの二宮清純氏の話。 「高校・大学時代に投手としてフル回転した“蓄積疲労”がプロでの成長を阻んだ。肩や肘の故障に苦しんだのも無関係ではないでしょう。この“負債”がなければ、プロで100勝程度の白星を挙げる力はあったと思っています」 プロ1年目に6勝を挙げ、翌年に開幕投手も務めた斎藤だが、その後はケガに悩まされ低迷。そんな彼には一度、トレードの話が浮上したことがあったという。 「プロ入りして4~5年目の時でした。“再起を図るには環境を変えるのも一つの方法”として、トレードが模索された。当時、交換先の候補として挙がったのがヤクルト。斎藤が大学時代に活躍した神宮球場が本拠地でもあり、成就の可能性はあったが結局、立ち消えになった」(球団関係者) 2006年夏の甲子園の決勝再試合。マー君(田中将大投手)との死闘を制し、“ハンカチ王子”ブームは社会現象に。その後、早実から早大へと進み、10年にドラフト1位で日ハムに入団。プロ11年での通算成績は15勝26敗だ。
宣伝効果と“庇護者”の存在
18年以降は1軍での白星もなく、早々に「戦力外通告」を受けていても不思議ではなかった斎藤。その背景には「ドラフト時、日ハム側が入団拒否を避けるため、斎藤自ら“やめる”というまでクビにしないとの密約があると囁かれた」(スポーツ紙デスク)とも。 一方、日ハム関係者はこう反論する。
「入団が決まると関連グッズはバカ売れし、その人気は斎藤が結婚を発表する19年末頃まで続いた。宣伝効果も含めれば、球団にとって彼は無視できるものでなかった。放出しなかったもう一つの理由は栗山英樹監督の存在。“佑ちゃんフィーバー”の際、当時キャスターとして間近で斎藤の苦労を見てきた監督は、プロ2年目に彼を中心にした投手陣を組み立てようとしたが失敗。それでも庇護者となって斎藤を守り続けた」 引退発表の翌日、母親のしづ子さんにも話を伺った。 「(成績が上がらない時期など)本人もいろいろと思うところはあったと思いますが、弱音などは一切吐かない子でした。“お疲れさま”の言葉しかありません」 早くも「『熱闘甲子園』のキャスターに起用したい」(テレ朝関係者)との声や、「早実の監督に」といった話も出ているが、第二の人生にご多幸はあるか。
「週刊新潮」2021年10月14日号 掲載
新潮社
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