日本経済新聞で6月22日から「安いニッポン ガラパゴスの転機」というシリーズ記事が始まった。
消費者が「安さ」を強く求める日本は、世界で需要が盛り上がって価格が高騰しているズワイガニを買うことさえ難しくなってきた――というような、デフレ国家・日本のシビアな現実が毎回紹介され、ネットやSNSでは「日本が2流国家に成り下がった証だ」などと反響を呼んでいる。
実はこのシリーズは昨年もやっていて、『安いニッポン 「価格」が示す停滞』(日本経済新聞社)という新書にまとめられよく売れているという。それを受け、6月27日には『Mr.サンデー』(フジテレビ)でも「安いニッポン」特集が組まれた。軽井沢の別荘が、香港やシンガポールと比べると破格に安いことから、中国人富裕層などに飛ぶように売れている実態がレポートされ、「安いニッポン」を改善しないと、今の子どもたちが大人になる時代には「貧しいニッポン」になってしまう、なんて警鐘も鳴らされていた。
海外で生活したことがある人などからすれば「何を今さら」という話だろうが、大手マスコミがこのようなテーマを取り上げるようになったことは悪いことではない。「賃金引き上げ」について国民が真剣に考えるきっかけになるからだ。
以前から『「賃金上げたら日本は滅びるおじさん」の言っていることは、本当か』(2019年8月6日)などでも指摘させていただいてきたが、日本経済低迷の主たる要因は、先進国の中でもダントツの「安い賃金」だ。
マスコミの「安いニッポン」キャンペーンによって、今や韓国にまで追い抜かれしまった「安い賃金」という構造的な問題に国民の関心が集まれば、世界では常識となっている「継続的な賃上げ」に遅ればせながら日本も踏み切るべきだという機運が高まる、かもしれない。
だが、そのような淡い期待を抱く一方で、マスコミの「安いニッポン」報道の論調には若干の物足りなさも感じている。例えば、「安いニッポン」を放置しておくと、日本人はどんどん貧しくなってしまうというのがマスコミの主張だが、現実問題としてとっくの昔にわれわれは貧しくなっている。
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「安いニッポン」が続けば
OECD(経済協力開発機構)のデータによれば、日本の相対的貧困率はG7の中でワースト2位。シングルマザーの相対的貧困率でいえば突出して高くワースト1位だ。ちなみに、この「貧しいシングルマザー」は「安いニッポン」の象徴的存在と言ってもいい。
日本のシングルマザーの就労率は87.7%と、実はOECD諸国の中でも高い部類だ。つまり、他の国のシングルマザーよりもかなりしっかりと働いているのだ。にもかかわらず、貧しいということは、「賃金がダントツに低い」ことになる。
ご存じのように、日本のシングルマザーの多くは、パートや派遣など非正規で雇われている。子どもを養うために安い時給でも文句ひとつ言わずに真面目に働く、おまけに景気が悪くなればサクッとクビにできる非正規のシングルマザーのような人たちの犠牲の上に、「安いニッポン」は成り立っているのだ。このような構造的な問題にも、マスコミの皆さんはズバズバと切り込んでいただきたい。
ただ、何よりも筆者がお願いしたいのは、この問題を「貧しくなる」で終わらせてほしくないことだ。「安いニッポン」をこのまま放置し続けたら、現実としてはその程度では済まない。「日本人の命」さえ軽んじられてしまう恐れがあるのだ。
「安いニッポン」が進行することは、先ほどの「貧しいシングルマザー」のようなワーキングプアが社会にあふれかえるということだ。一方、海外に目を移せば、賃金が上がって経済もどんどん成長している。
このような内外格差が激しくなると、どういうことが起きるのかというと、「出稼ぎ日本人」が増える。つまり、賃金の低い自国に見切りをつけて、待遇のいい国へと渡っていくのだ。
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「脱出」する日本人
それを裏付けるデータもある。2019年10月1日現在の推計で、在留邦人総数は141万356人。前年より1万9986人増えて、この統計を開始した1968年(昭和43年)以降最多となっているのだ。
では、これから「安いニッポン」に見切りをつける人々はどこへ向かうのかというと、やはり「本命視」されているのは経済成長著しい中国だ。一橋大学名誉教授の経済学者・野口悠紀雄氏は「20年後には日本人が中国に出稼ぎする」(毎日新聞 20年1月4日)と未来を予見する。実際、今回の日経の「安いニッポン」の中でも、以下のような「中国への出稼ぎ日本人」が登場する。
『「月給9万円」低賃金放置 アニメ産業、中国に人材流出』(6月24日)
ご存じのように、日本のアニメは世界的に評価も高いが、それを制作しているアニメーターの賃金は常軌を逸した低賃金だ。日本アニメーター・演出協会の調査では、年収が400万円以下が54.7%にのぼり、中小零細の若手となれば月給9万円もザラだという。そんな低賃金・重労働に嫌気がさして、作品の質も上がるなど成長著しい中国のアニメ市場へ人材が続々と流出しているというのだ。
そして、このような「出稼ぎ日本人」が中国や東南アジアなど海外に進出すればするほど、ある問題が深刻化していく。それは、「日本人出稼ぎ労働者の「命」や「人権」の軽視だ。
どのような国であっても、多かれ少なかれ「ナショナリズム」というものがある。そのため建前的には「世界は一つ、人類みな兄弟」と言いながら、自国の労働者と、他国からの出稼ぎ労働者の待遇に差をつける問題がどうしても生じてしまう。
もちろん、高度な知識や技術のある人は、そのような不安はないだろう。ただ、「安いニッポン」が進行していけば、「出稼ぎ」するのはそのような優秀な人ばかりではなくなっていくはずだ。
貧しい国から出稼ぎに来ていることで足元を見られ、自国の人間が嫌がるような仕事を押し付けたり、長時間労働を強いたりすることもあるだろう。あるいは、自国の人間だったら絶対にしないようなセクハラ、パワハラ、イジメのターゲットになってしまうかもしれない。
つまり、「賃金の高さにつられてやって来ている外国人」がゆえ、危険な仕事や過酷な仕事を強いられたり、人種差別の被害にあったりする恐れがあるのだ。
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日本から出ていく「外国人」
例えば、先ほど紹介したようなケースで、日本国内で月給9万円しかもらえなかったアニメーターが、中国のアニメ会社に3倍の給料で就職をしたとしよう。このアニメーターが突出した素晴らしい技術を持っていれば、国籍など関係なくそこで着々とキャリアを積んでいくだろう。
しかし、同じ給料の中国人アニメーターとそれほど技術に差がなかったらどうか。中国人アニメーターより冷遇されるかもしれない。過酷な仕事をやらされたり、パワハラを受けたりするかもしれない。日本と比べて破格に高い賃金を払ってくれるこの会社で、雇ってほしい日本人アニメーターははいて捨てるほどいるからだ。
そこでもしこの日本人アニメーターが上司や経営者に文句を言っても、こんなことを冷たく言い放たれてしまうかもしれない。
「嫌なら辞めてくれて結構ですよ。中国で働きたい日本のアニメーターはたくさんいますから」
「荷物まとめてさっさと日本に帰れ!」
いくらなんでも妄想が過ぎるだろ、と思う人もいるかもしれないが、ちょっと胸を当てて考えていただきたい。実はわれわれはこのようなケースが、世の中にはよくあることを誰よりもよく知っている。
そう、日本に「出稼ぎ」に訪れている技能実習生などの外国人労働者が直面している問題がまさしくこれなのだ。
20年10月、群馬県内の農業法人で働いていたスリランカ人女性が、雇い主から常習的に暴行を受けていたと告発。農業法人の社長の息子から怒鳴りつけられた音声データが、群馬県庁で開かれた記者会見の場で公開された。
「嫌だったらスリランカに帰れ」
「いらねえよ、てめえなんか」
スリランカの女性は会見で「優しい安全な国というイメージが、暴力を受け、日本ってこういう国なのかと思うようになってしまった」(上毛新聞 20年10月17日)と述べている。日本でさえこの有様なのだから、どこの国でも「外国人労働者」には同様の問題が起きるということだ。
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「安いニッポン」は買い叩かれ
10年後、20年後、「安いニッポン」に見切りをつけて、中国や東南アジアに「出稼ぎ」にいくであろうわれわれの子どもや孫たちが、異国でどのように辛い目に遭うのかは、容易に想像できよう。
そんな恐ろしい未来を予見させるようなデータもある。
20年の外国人労働者の死傷者数は4682人で、うち死者数が30人。外国人労働者の総数が増えている中でこれはさらに増えていく見込みだが、問題は日本人労働者と比べた割合である。
厚労省の労働災害発生状況などを基に両者を比較した、NPO法人POSSE代表で雇用・労働政策研究者の今野晴貴氏によれば、製造業では、外国人労働者が日本人労働者の約2倍の割合で労災に遭っており、建設業にいたっては、2倍以上の割合だという。
言葉の壁があって危険を回避するためのコミュニケーションがうまく取れていない。外国人労働者ばかりが危険な仕事をやらされている……などいろいろな要因があるだろうが、全て突き詰めていけば、外国人労働者の「命」が軽んじられていることに集約される。
つまり、「安いニッポン」が進行していけば因果応報で、今度はわれわれ日本人労働者が「命」を軽んじられる側にまわるかもしれないのだ。
多くの人は忘れてしまっているだろうが、ほんの3年ほど前、マスコミに立派な評論家センセーたちが登場して、「賃金の高い日本で働きたい外国人は世界にたくさんいますよ」「これからは外国人材を活用して人手不足の解消すべき」なんてことを言っていた。
しかし、残念ながらこれらは「ご都合主義的な願望」というか、「妄想」に過ぎなかった。今や「安いニッポン」は買い叩かれ、アニメや半導体などの分野から次々と人材が流出している。外国人材の活用どころか、自国人材すら活用できていない体たらくである。
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「賃上げ」に取り組むべき
このような話をすると、決まって「安倍が」「竹中が」「小泉改革が」という恨み節が聞こえてくるが、「安いニッポン」という構造的問題がつくられたのはもっと古い。諸悪の根源は1963年の中小企業基本法だ。
これによって、日本は「中小企業は国の宝」を合言葉に、本来ならばビジネスモデルの破綻や競争力の低下などで市場から退場する運命にあった中小零細企業を補助金やらの国の強力なパックアップで、無理に「延命」させるというガラパゴスな政策を50年以上も続けてきた。
中小零細企業を延命させるには、賃金はなるべく低く据え置かなければいけない。労働者はどんどん貧しくなるので、結婚もできなくなっていく。少子化が進行するので、戦後復興の原動力だった人口増にブレーキがかかる。それでも中小企業の延命のためには賃金をあげられないので、生活に希望が持てない。
中でも「絶望」するしかないのが若年層だ。年功序列という悪しき慣習のせいで、低賃金国家ニッポンの中でも輪をかけた低賃金を強いられている。まさに夢も希望もない状況だ。だから、日本は先進国の中で唯一、若年層の死因1位が「自殺」という「若者が夢を抱けない国」となっている。
20年1月、米国のエモリー大学の研究者らが、全米50州及びコンビア特別地区の最低賃金の過去26年間のデータをもとに分析したところによれば、最低賃金が上がれば自殺率が下がることが示唆されたという。
この賃金と自殺の関係を踏まえると、なぜ低賃金国家ニッポンで長いこと年間3万人もの自殺者が出ていたのか、そしてなぜコロナ禍で女性たちの自殺が増えているのか、という疑問の答えもなんとなく見えてくる。
「中小企業は国の宝」という社会システムを守るため、労働者が犠牲を強いられる今のニッポンの構造は、戦時中、国体を維持するため、若者たちが玉砕や特攻を命じられたのと丸かぶりだ。それはつまり、「破滅」の道を歩んでいることにほかならない。
一刻も早く「安いニッポン」から脱却しないと、われわれの子どもや孫たちの「命」が、国内外で軽く扱われてしまう。
「中小企業が潰れないでたくさんあれば日本経済は絶好調!」というなんの科学的根拠もない「呪い」から解き放たれて、そろそろ国民をあげて「賃上げ」に本気で取り組んでいくべき時期にきているのではないか。
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からの記事と詳細 ( 「安いニッポン」の本当の恐ろしさとは何か 「貧しくなること」ではない - ITmedia )
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